ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ (John Fitzgerald Kennedy , JFK , 1917年5月29日~ 1963年11月22日)

1940年、ハーバードを優等で卒業したケネディは、1941年の春に陸軍を志願したが、背中の傷のために拒絶された。 しかしその年の9月に海軍士官に任官、1943年3月には魚雷艇艇長として、太平洋戦線において様々な作戦に参加し日本軍と戦った経歴を持つ。
ケネディ中尉が率いる魚雷艇、PT-109は、1943年8月2日にソロモン諸島のニュージョージア島の西を哨戒していた時に、大日本帝国海軍の駆逐艦「天霧」との偶発的な接触事故によって船体を引き裂かれた。彼は負傷者を命綱で結びつけ3マイル遠泳して、なんとか小さな島にたどり着いたが、捜索・救出開始まで一週間近くかかってしまい、PT-109の乗員たちは飢えと渇きに苦しんだ。この時のケネディの部下を見捨てなかった勇敢な行動が、後の政治家としての資質評価に大きく寄与したとされる。

後に、ハルゼー海軍提督からの感謝状、名誉負傷章、海軍メダルおよび海兵隊メダルを受章した。しかし背中の傷が悪化し、さらにマラリアにかかり、1945年前半、終戦の数か月前に名誉除隊をした。

第二次世界大戦後、彼は戦死した兄ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアに代わり政界に入った。1946年に下院議員に立候補し、大差で共和党候補に勝ち、29歳で下院議員となった。下院3期目の1952年には上院議員選挙に出馬し、約70,000票の票差で共和党候補ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを破った。 1953年9月12日にフランス系移民の名門の娘であるジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚した。 

ケネディは1961年1月20日に第35代大統領に宣誓就任した。ケネディは就任演説において、アメリカ人がみな「アクティブ・シチズン」である必要を語った。「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」と演説し、さらに「人類の共通の敵」である暴政・貧困・疾病および戦争と戦うためにともに参加してくれるように世界の国家に依頼した。

ケネディは組織犯罪と労働組合の腐敗を追及する上院マクレラン委員会の委員として、実弟のロバート・F・ケネディ名を連ねていた。 この委員会によりアメリカ一の組合員数を誇ったトラック運転手組合とマフィアとのつながりを明らかにし、組合のボス、ジミー・ホッファとマフィアの深い関係を暴き以後ケネディ兄弟とマフィアの対立が始まる。 また、マクレラン委員会はキューバからのヘロインの中継基地が、南部の港湾都市で、港湾労働者組合をマフィアが抑えていたニューオーリンズであることも明らかにした。この委員会の活動によりケネディ兄弟は一段と知名度を高めた。

民主党予備選
ケネディは民主党予備選挙に7度出馬し全て勝ち抜いたが、民主党幹部はカトリック教徒である彼が大統領候補になれば民主党は勝てないと判断した。彼らの声を代表して元大統領のハリー・S・トルーマンはミズーリ州インディペンデンス市で記者会見を行い、テレビを通じてケネディに出馬を思いとどまるよう訴えた。ケネディはこれを逆手にとってニューヨークで記者会見を開き、全ての予備選に出馬したのは自分だけであること、14年間の自分の政治経歴が大統領職に十分でないのであれば、トルーマン自身を含めて歴代の大統領の大部分が経験不足ということになること、44歳以下の人間が国家に対して責任ある地位に就けないのであれば、建国の父たちは存在し得なかったことを挙げて反論し、国民の支持を増した。

キング釈放への関与
大統領選キャンペーンが最後の追い込みに入った10月半ば、公民権運動家のマーティン・ルーサー・キングJr.牧師が、座り込みデモのために南部のジョージア州アトランタで逮捕された。この事件に対しコメントを求められると、ニクソンはノー・コメントの姿勢を貫き通したが、ケネディは即座にキング夫人に事態を憂慮しているとの電話をかけ、キング釈放のために動き出した。翌日、実弟のロバート・ケネディがキングに有罪判決を言い渡した判事に電話を入れ、キング釈放を求め、この翌日キングは釈放された。この一件で多くの黒人有権者がニクソンからケネディに流れたといわれている。

ピッグズ湾事件
亡命キューバ人を訓練してカストロ政権を転覆させることを目的としたピッグズ湾事件が就任後すぐに起こった。 CIAは上陸する亡命キューバ人部隊に対してはアメリカ正規軍の援助を約束していたにもかかわらず、作戦終盤に急遽ケネディが正規軍の戦闘機による護衛を行うまで正規軍の投入を控えたことや、ケネディがつけた条件の「非正規軍」の爆撃機や補給船などを準備したものの、作戦の計画がキューバ側に漏れていた為にキューバ軍が亡命キューバ人部隊2000人弱に対して20万人のキューバ軍を動員して迎え撃ったこともあり作戦は完全な失敗に終わり、さらにこの事件へのアメリカ政府の介入が世界中に知られたため、この作戦を推し進めたケネディ政権は中南米諸国をはじめとする各国からの非難を浴びた。さらにアメリカ軍正規軍の投入を土壇場で拒否したために、亡命キューバ人団体やCIA、軍部からも反感を買った。

キューバ危機
キューバ危機は、アメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、ソビエト連邦がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した1962年10月14日に始まった。 キューバ危機の回避は、おそらくケネディの大統領在職中最も重要な出来事だ。 ケネディは戦争を望んだ政権中の強硬派のコントロールと、ソ連の脅迫によって脅威が増すことを防ぐことの両方に成功した。 後に、多くの人がキューバ危機を「世界が核戦争に最も接近した時」であると考えている。   ケネディは海上封鎖の実施を決断した。
1962年10月22日午後7時、武力による海上封鎖の準備が整った上でケネディは演説を行い、キューバに攻撃用ミサイルが持ち込まれた事実と米国によるキューバ海上封鎖措置を発表し、キューバ国民に対して攻撃用ミサイルは何の利益にもならないと強調した。ケネディの演説から2日後の朝に海上封鎖が発効し、潜水艦に守られていたソ連船18隻のうち16隻が洋上で停船・またはUターンし、翌日にはこれら16隻全てがUターンした。しかし10月27日に、ルドルフ・アンサーソン少佐が操縦していたU-2偵察機がキューバのSAM(地対空ミサイル)により撃墜される事件が起こった。 これに対しては国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)のほぼ全員がSAM基地の破壊で一致したが、ケネディは彼らを引き戻し、キューバに対する攻撃は、ベルリンやアメリカのジュピター・ミサイルが配置されているトルコに対するソ連の攻撃を誘発しかねないことを訴え攻撃しないことを決定した。
ケネディはアナトリー・ドブルイニン駐米ソ連大使を司法省に呼び、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き換えにフルシチョフに、キューバのミサイル基地を解体することに同意させた。 キューバ危機の後、ケネディはトルコに配置してあるジュピター・ミサイルを撤去した。 ケネディとフルシチョフは、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避したことにより世界中からの尊敬を集めた。

対イスラエル政策
ケネディはまた、イスラエルの核開発に対し強硬に対応した唯一の合衆国大統領として知られている。 ケネディは大統領就任直後から「イスラエルが核を取得することは中東に大きな戦禍をもたらすことになる」という信念のもと、何度も外交勧告を行い、ついには査察団まで送り込んで反対した。

ベトナム戦争
ケネディは大統領に就任直後、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに、副大統領のジョンソンを派遣し情勢視察に当たらせた。 特別委員会、統合参謀本部はともに、ソ連の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていた南ベトナムへのアメリカ正規軍による援助を提言し、ジョンソンは全面的な支援を訴えた。これを受けてケネディは、「軍事顧問団」の派遣を増強することを決定した。 ケネディはベトナム戦争からの早期撤退の可能性を検討した。1963年9月3日に、ケネディはテレビのインタビューに対し、「サイゴン政府が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争―ベトナム人対共産主義者の戦い―で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ。我々は彼らを支援し続ける用意はある。しかしベトナム国民がこの努力を支持しなければこの戦争には勝てない。私の見るところ過去二ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えた。
そして10月31日には、「1963年の末までに軍事顧問団を1000人引き上げる予定」であることを発表した。そして11月の反ディエムクーデターの後には、マクナマラ国防長官が年内の1000人の顧問団の引き上げを再確認するとともに、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表したが、ケネディ暗殺のため撤退計画は頓挫したと言われる。 ジョンソンはケネディのベトナム撤退に強く反対であった。ケネディの死後アメリカによるベトナムへの本格的な軍事介入はジョンソン大統領によってより増強され、泥沼化した。

人種差別との戦い
ケネディは、多くの深刻な国内問題にも対処しなければならなかった。すべての問題の中でも最も大きな問題であったのは当時アメリカ人口の3割強を占めていたアフリカ系アメリカ人に対する人種差別に関する問題であった。 ケネディはそれまでは議会との対立を避け公民権法案の提出を見合わせていたが、1963年6月11日公民権運動を助けるためにより強い処置を講ずる時期が来たと決断し、議会への新しい公民権法案を提案し、テレビで大統領執務室から直接国民に訴えかけた。 この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」であると断じた。ケネディは議会に対する説得にも力を入れた。6月19日に法案を議会に送った。 この公民権法はケネディ政権下では成立しなかったが、人種差別廃絶に対し積極的な姿勢を持っていたジョンソン政権下で議会を通過し、1964年公民権法として成立することとなった。 1963年8月28日にキング牧師がワシントン大行進でI Have a Dreamの演説を行った後、ケネディはキングをホワイトハウスに招待し、「私も夢見ている」と語った。

アポロ計画
ケネディは、アメリカが宇宙開発競争の先頭に立つことを熱望した。当時、ソ連は世界で最初の人工衛星スプートニクをアメリカに先駆け成功させたのに続き、その後も1961年に初の有人飛行を成し遂げるなど、宇宙開発については完全にアメリカに先立っており、ケネディは「アメリカが宇宙開発競争で後れをとることはできない」と発言していた。 その後ケネディは、アメリカ人を月に到達させるという計画(アポロ計画)のために220億ドル以上という巨額の予算を承認してくれるように議会に依頼し、この計画の推進によって大きな利益を得ることになる大手軍事産業のロビー活動の後押しもあり、これを無事に通過させることに成功した。 なお、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争は、宇宙空間における探検や冒険、研究といった側面ではなく、冷戦下においてソ連との間で宇宙空間の軍事的覇権を争うという側面や大手軍事企業へ仕事を与えると行った側面が強く、アポロ計画をはじめとする宇宙開発競争が同じくケネディによって当時推進されていたベトナムへの軍事介入の拡大と併せて進んだ結果、マクドネル・ダグラスやノースロップ、ロッキードなどの大手軍事産業は大いに潤う結果となった。 なお、ケネディによって推進されたアポロ計画は、ケネディの死後ジョンソン政権とニクソン政権に引き継がれ、ニクソン政権下の1969年にアポロ11号はついに月面に人類を送り届けることに成功した。


暗殺

 
暗殺直前のケネディ(後席右側)
弾丸が命中した瞬間(ザプルーダー・フィルムから)

ケネディは1963年11月22日に、遊説先のテキサス州ダラスの市内をリンカーンのオープンカーでのパレード中に狙撃され、暗殺された。 暗殺の理由と暗殺者は以下のように多くの説があり、いまだに結論が得られていない。その主な原因は、証拠物件の公開が政府によって不自然に制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるためである。
衣料販売店を経営するエイブラハム・ザプルーダーによって撮られた暗殺の瞬間の8ミリ映像(「ザプルーダー・フィルム」と呼ばれている)は、ビデオ化された映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)、インターネットなどで容易に見ることができる。大統領の頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、「後方に」動いていることから、その致命的な射撃は「前方から」行われたとみられる。 直後に大統領夫人が動揺した様子で頭が吹き飛んだ「後方に」目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛にすぐ引き戻されている映像が確認できる。 大統領夫人自身はその行動を認め、「後方に」吹き飛んだ大統領の頭の断片を拾うために「後方」部分に這い出たことを裁判で後に証言している。 

また、複数の一般人が、大統領が撃たれた場所の前方の丘の上に複数の銃を持った私服の人物がいたことや、前方から銃声が聞こえたことを証言している上、警備中のダラス市警の警官が、撃たれた場所の前方で銃声と火薬の匂いがしたことを証言している。これらの独立した直接的事実は、射撃はすべて「後方から」リー・ハーヴェイ・オズワルドによって行われたとする暗殺真相究明委員会(ウォーレン委員会)による政府側報告書とまったく矛盾しており、政府側もしくは軍産複合体の巨大な陰謀が指摘される理由となっている。 ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が政府側もしくは軍産複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある。

いろいろな証拠を考え合わせると、まず後方(教科書倉庫付近。2箇所か)、そしてすぐに前方(駐車場付近。頭部に命中)から射撃が行われた可能性が高いと言われることが多い。 暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、ダラス市警察本部の地下通路で、マスコミのカメラの前でジャック・ルビーに射殺された。 この射殺事件にもケネディの暗殺事件の真相の隠蔽行為(口封じ)であるとする意見がある。ルビーは1964年3月に殺人罪で有罪判決が下されるが、事件について多くを語らないまま4年後に肺塞栓症によりダラスのパークランド病院で死亡した。  

さらに謎めいた事件が続いた。オズワルドが犯人ではないと証言した運転手のホエイターは奇怪な交通事故死。 目撃者のレイノルズは重傷を受けて瀕死の重態。同じくペナピデスは、瓜二つの弟のエディをダラスの酒場で射殺されている。
同じく「オズワルドはケネディ殺しではない」と言ったジェームズはコンクリートの車道に落ちて重傷。 事件直後に取材に当たったプレス・テレグラム紙の事件記者のハンターが警官の誤射によって即死。 ダラス・タイムスのジム・ケースも自宅で虐殺。 殺された事件記者と行動を共にしていた弁護士のハワードもダラスで謎の頓死。 スクープ記者のドロシーは自宅で急死。  「ケネディを狙撃したのは、オズワルドのいた教科書倉庫より、反対の陸橋側だった」と証言したパワーズ鉄道員は、レールの上で首と手足をバラバラにされて発見。ダラス警察は事故死と発表している。

wikipedia より引用




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