空母ミッドウェー博物館
 
ご存知の方も多いと思うが、横須賀を母港にしていたアメリカ海軍航空母艦ミッドウェーが、米国カリフォルニア州南部の軍港都市サンディエゴで、航空母艦博物館として一般に開放されている。 横浜の「氷川丸」みたいな感じ (ただし桁違いにデカイ)、見学当日は好天に恵まれたせいか、家族連れや若いカップル、老夫婦等が、楽しそうに見物していた。彼らにとって空母ミッドウェーは、強い国家の象徴である。誇りに思い愛着を感じるのも当然だろう。

今から61年前、1945年にこのような巨大な(艦体の大きさもさることながら、空母の大船団及び搭載する航空機の製造、兵員・技術者の養成、港湾施設の設備投資、補給態勢等々とこれらを支える経済力等のトータルなシステムとして)組織が作られ、さらに今も維持されていることに、深い感銘をうけた。同時に、この巨大な戦闘システムが何らかの事情で、こちらに牙をむいたときのことを想像すると、底知れない不安と凍りつくような恐怖が感じられた。この恐怖こそが航空母艦の持つ抑止力の証だ。1945年、日本が太平洋戦争に敗れ8月15日に無条件降伏した年に、ミッドウェーは就役している。ひょっとしたら神風特攻隊の攻撃に遭遇したこともあるかもしれない。そのとき特攻隊員達は、どんな気持ちでこの巨大な戦闘システムに立ち向かったのかと、思いをめぐらすと胸が熱くなるのであった。


空母ミッドウェーの歴史
空母ミッドウェー(USS Midway, CV-41/CVB-41/CVA-41)は、太平洋戦争の末期1945年に、同型の姉妹艦フランクリン・D・ルーズベルト (USS Franklin D.Roosvelt, CV-42/CVB-42/CVA-42) 、コーラル・シー (USS Coral Sea, CV-43/CVB-43/CVA-43)と同時に就役した。その後朝鮮戦争には参加せず、主に地中海方面に派遣されていたが、ベトナム戦争には参戦した。その頃から横須賀基地を母港として、約20年にわたり日本やアジア地区の米軍事作戦に従事した。その後、1970年代末には老朽化のため、退役船にリストアップされたが、当時のーガン大統領が、海軍500隻態勢の戦略を打ち出したため退役を免れた。その後、湾岸戦争に航空母艦6隻のうちの1隻として参戦したが、1992年には老朽化のため退役が決定した。

その後10年間程モスボール(東海岸の大きな川に、ワックスで固めた巨大な梱包物として浮かんでいる)状態で保管されていたが、2004年に9億円の改造費をかけて、航空母艦博物館として、サンディエゴで第二の人生を送ることとなった。

空母ミッドウェイが就役した第二次世界大戦末期の艦載機は、レシプロ(ピストン)エンジン、プロペラ推進であったが、まもなくジェット機の時代となった。ミッドウェーは、当時の航空母艦に比べて、はるかに大型で搭載能力に優れていたため、軽量のプロペラ機から大型・重量・高速のジェット機への大転換に、容易にシフトしたという歴史を持つ。

空母ミッドウェイの主要諸元 (退役時) 
・排水量: 69,873 t full load
・全長: 976 ft/297.5 m
・全幅: 263.5 ft/80.3 m
・吃水: 35 ft/10.7 m
・武装: 2 x 8-cell シースパロー・ランチャー, 2 x Mark 71 mod 0 ファランクス CIWS
・速度: 33ノット(61 km/h)
・総出力: 21万2千馬力 (158 MW)
・主機: 石油ボイラー式蒸気タービン4基 4軸
・艦載機: 75 機





雑 感
航空母艦を誰が発明したのか筆者は知らないが、自動車はダイムラー、飛行機はライト兄弟が発明しており、空母も日本人が発明したものではないだろう。だが大砲の砲弾を抱いた飛行機を、海上から飛び発たせ、遠隔地を攻撃する戦術を発明したのは、日本海軍だ。太平洋戦争開戦当初の真珠湾攻撃は、史上初の空母艦載機による対地・対艦攻撃だった。同時期にシンガポールの辺りだったと思うが、日本海軍艦載機が大英帝国の最新鋭戦艦「プリンスオブウェールス」と「レパレスベイ」を急降下爆撃で、一瞬にして轟沈させるという大戦果を挙げた。

ところが、この大成果を挙げた航空機の新戦術に、日本軍は冷淡だった。当時の海軍は、バルチック艦隊戦勝以来、遠くから大砲を当てるアウトレンジ戦法に拘泥する砲術屋と、敵陣深く進攻し捨て身の魚雷攻撃が一番と信じきっている水雷屋が主流派であったため、新しい航空機の活躍は、彼らにとって受け入れがたい出来事であった。           
また残念なことに、陸軍も戦術転換ができなかったのは同じであった。陸軍は太平洋戦争の数年前に発生した、ノモンハン事件(日本陸軍とソ連軍が国境紛争を巡り軍事衝突した)で、戦車を主体とするソ連軍に対し、日露戦争時代からの、歩兵の突撃による白兵戦で対抗し、大損害を出した。しかし陸軍はソ連軍に大敗した事実を隠蔽したばかりか、機甲部隊に対抗するための軍事改革に手もつけなかった。

他方、予期せぬ大損害を蒙った米英軍は、日本軍の艦載機による攻撃に覚醒し、直ちに航空機による攻撃に戦術転換し、最後は制空権掌握という戦略にたどり着いた。その後のアメリカの対応は素早く、建造途中の軍艦はもちろん、商船までも航空母艦に改装し太平洋戦線に続々と送り出してきた。  ところが日本は自ら航空機戦術により大成功を収めながらも、時代遅れとなった大和などの重戦艦も重用するといった中途半端な戦術で、ミッドウェー攻撃に失敗し主力空母を全て失った。  このとき碁盤の四隅は全て米軍に取られた。
   
筆者は戦後生まれで戦争を知らない世代であるが、太平洋戦争敗北のきっかけとなった作戦名「ミッドウェー」 (島の名前)という言葉に触れるたび、心の奥底に少なからぬ葛藤を感じていた。今、空母ミッドウェーを眺めていると、二度と戦争は起こしてはいけないと強く思いながら、同時になぜ日本は、完膚なまでに叩きのめされたのか、改めて考えさせられた。太平洋戦争は、アメリカの物量に負けたといったことを言う人もいるが、筆者にはそうは思えない。
当時の日本軍に連合軍と同等の物量があったとしても、やはり負けただろうと思う。
何故ゆえにそのように思うかについては別の機会に述べたいと思う。
                          
                                   
空母ミッドウェー艦上にて。



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